「新しい年に」

阿部 慶太神父

 

1年の計は元旦にあり、という言葉があります。この言葉は正しくは、「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり」で、その日にすべきことは朝に計画を立て、その年にすべきことは元旦に計画を立てるべきである。そこから、何事もはじめに計画を立てるのが大事であるという意味の言葉です。

新しい年が始まると「今年は〇〇をしてみよう」とか「今年こそ〇〇に行ってみよう」とかそれぞれ今年の目標や実行したいことを考えるのではないかと思います。

しかし、キリスト者としての皆さんの今年の目標はなんですか?と問われたら、あるいは今年はどんな計画を立てましたか?と問われるとどうでしょうか。

去年、発布された教皇フランシスコの使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE(喜びなさい、大いに喜びなさい)-現代世界における聖性への呼びかけ」の中で、教皇は、「すべての人が聖性に招かれている」ことを強調しています。

キリスト者としての目標云々に関わらず、私たちはイエス・キリストが示した道を生きるよう招かれているわけです。

旭川市内には、私たちの4つのカトリック教会があり、それぞれ、各共同体の特色や地域への関わり方も異なります。このことは、私たちがイエス・キリストの示した道をそれぞれの方法で生きることが可能であることを示すしるしでもあります。

新しい年が始まったばかりですが、私たちがそれぞれの在り方と生き方で、イエスキリストを示すことができるように、そして、一人でも多くの人に福音を伝えることができるようにしたいものです。

白鳥

                             美架得留 間野

 毎年10月末から11月初旬にかけ修道院上空に数十羽からなる渡り鳥が北から南に向け飛んで行くのを見かける。いつも見慣れているカラスやトンビと違い優雅で美しく規律正しい飛び方は見る者の心を和ませてくれる。今年も11月前後にかけ渡り鳥の群れを何度か見ることが出来た。

 北海道には数多くの渡り鳥が1年を通して飛んでくる。その中で秋から冬にかけて冬から春にかけ飛来してくるのが丹頂鶴や白鳥、ガンである。始めて神居修道院上空に渡り鳥が飛んでいるのを見た時は丹頂鶴と思い興奮したが形や大きさを見ると白鳥である。

多くの鳥は鳥目と言われ夜になると視力が著しく低下し目が見えなくなると考えていたので夜(20~21時頃)、鳴きながら(お互いを確認しながら又は注意し合いながら?)飛んでいるのには驚いた「どうして暗い夜に飛べるのか?」。 しかし、フクロウ等は夜行性で夜の方が活発に動き回るので白鳥が暗い夜に飛んでいても不思議ではない。

 特に10~11月と4~5月にかけて湖や沼、川には何百・何千羽の白鳥やガンが飛来しとても壮観である。場所によってであるが野生であるにもかかわらずパン屑等を差し出すと近づいて食べるのでかなり人慣れし逃げようとしない渡り鳥がいる。旭川周辺でも渡り鳥が田畑や川、沼地で羽を休め地面に落ちた稲穂や藻、小魚をついばんでいるのを見かけるが人が近づくと逃げてしまう。どうして湖と田畑では違うのだろうと疑問になる。

 遥かロシア極東から何千キロという距離を移動し毎年同じ地に飛来して来る白鳥。地図もなければナビゲーションのようなものもないのにどうしてその地が分かるのか。本能だから当たり前と言えばそれだけであるが、よくよく考えてみると実に不思議である。

  北から南へ何千キロという道のりを声を掛け合い、励まし合い、認め合い、確認し合いながら何ヶ月もかけて飛んでくる白鳥。私もイエスが歩まれた信仰の道のりを人生をかけて皆と共に歩み続けたいものである。

神を信じる群(教会)と共に、イエスを先頭にV字形飛行で。

教会にいのちを与えるもの

 

                          山本 孝 神父

 10月22日は、2013年にフランシスコ教皇によって列聖された、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の記念日だった。ヨハネ・パウロ二世は、1920年ポーランド生にまれ、58歳で教皇に選出され、2005年に84歳で亡くなるまで、26年間教皇として在職し、歴史に残る数多くの業績を残された。空飛ぶ教皇と言われ、世界129ヵ国を歴訪した。日本には1981年2月に来日し、広島・長崎では「戦争は人間の仕業です。戦争は死です」と演説して核兵器の廃絶を訴えた。在任中に14の回勅、15の使徒的勧告、45の使徒的書簡を出し、147回の列福式、51回の列聖式を行い、マザー・テレサなど多くの聖人を誕生させた。

わたしは聖ヨハネ・パウロ二世が晩年、教皇在位25年目に出された回勅「教会にいのちを与える聖体」と、その翌年に出された使徒的書簡「主よ一緒にお泊りください」。それにもう一冊「おとめマリアのロザリオ」の三冊の本をいつも身近に置いて大切にし、何度も読み返している。わたしは、これらの文章により、司祭が最も大切にすべき事を教えてもらった。「聖体が教会生活の中心であり頂点であるならば、それはまた司祭の役務の中心と頂点でもあります。・・・聖体のいけにえは司祭の全生活の中心であり根源です」。

聖体とミサは、教会にいのちをあたえるもの、教会の神秘の核心にある事柄を要約し、教会を築くものだ。ミサが大切にされなければ、教会のいのちは消えてしまう。そして司祭の第一の務めはミサを立てることにあるのだ。

それからロザリオの祈りは、歴代の教皇や多くの聖人たちが推薦し、ヨハネ・パウロ二世も愛した祈りだ。以前、わたしは、2005年に、教皇ヨハネ・パウロ二世が亡くなった時、ブエノスアイレスのベルゴリオ枢機卿(現フランシスコ教皇)が追悼文のなかで、「わたしは、ヨハネ・パウロ二世のロザリオを祈る姿をみて、毎日15連のロザリオを唱えるようになった」と書いている記事を読んだ。その時からわたしは、忙しい教皇たちが毎日15連のロザリオを唱えているなら、もっと時間のあるわたしは教皇に負けないよう、一日25連(5環)は祈ろうと決心した。ミサとロザリオの祈りは、わたしの司祭生活の最も大切な力の泉だ。わたしは、毎月の初金曜日、午後1時から2時まで、5条教会で聖体賛美式を行っている。前出の回勅でも、「司牧者が、自らも模範を示しながら、聖体礼拝の実践を奨励する」ことを薦めている。聖なる聖体のうちに現存するキリストのみ前で、しばしのあいだ、キリストと語らい、礼拝し、心からの愛を表す人が増えて欲しいと願っている。            

神の語られることばは

                                                                                    戸田 三千雄


 東京の新宿区下落合に聖母病院があります。私は20代の初めのころに、健康診断で行きました。レントゲン撮影をするようにと言われて、X線室に行くと、女性の技師がおられました。胸部写真の後、このY先生は私の股関節の障がいをみて、ここには良い整形外科医がおられるから診てもらいなさい、と薦めました。しかし、私がためらいました。

時間がお昼近くでしたし、予約もありませんでしたから。しかし、Y先生は、ついてきなさいと、私を引っ張るように促します。それでY先生の後についていくと、いきなりK先生に引き合わせてくださいました。

K先生は股関節の診察をされながら、私の事情を聴いてくださり、涙ぐまれました。先生の涙を見て私は驚き感動しました。一粒の涙の思い出です。

 兄に診察の結果と手術について話しました。兄は、当時、あまり有名ではなかった聖母病院よりも、信濃町にある有名な大学病院での診断を薦めました。

結果は同じでした。兄の意見に従い、この大学病院にも行き診断してもらいました。かなりたったころに、教授は、若い医者をぞろぞろ従えてきてやってきました。そして診察をし、何も言わずに姿を消しました。かなり待たされてから、やってきた若い白衣の人が手術を勧めてくれました。

私は手術を受けるのなら、同じ信仰の持ち主の、K先生にお願いしたいと決め、そして聖母病院に入院しました。

私のチョイス、選択でした。

入院中に出会った方が、山本直忠先生です。私は1月から8月末まで入院していましたので、歩けるようになってから、朝ミサに参加していました。5月ごろに先生も入院されて聖堂で顔を合わせました。それがご縁で、ホイベルス神父さまが、先生をお見舞いに来られたときに、山本先生はホイベルス神父さまを連れてきて、引き合わせてくださったのです。

私は高貴なという印象を受けました。さらにその後に「もっと大きなものをみなさい」との言葉をいただきました。

良い出会いと出来事の賜物です。神さまの語られることば、現代語は、出会いと出来事であると、知りました。

若い時を思い出して

                                                                                     ドミニコ・バウア神父 

 

 3ヶ月ぐらい前に、学園の棚田さんから古い写真をいただきました。フランシスコ会のホームページから取り込んだ画像だそうです。私たちの時代は、幻灯とテープレコーダーでした。ずいぶん色々な事が変わるのですね。

その写真は、50年程前の古い札幌修道院の中で、少し緊張した31人の司祭とブラザーが写っています。写真の中で今残っているのは10人です。あとの人達は天国で私たちのために祈っていると思います。もうすぐ私も彼等の所に行きます。会うのが楽しみです。

 ドイツ人は、ローター神父さま、マンフレット神父さま、ヒラリオ神父さま、今ドイツのシスターの施設に入っているハインリッヒ神父さま、そして私です。あたりまえですが皆若かったです。

私が末広教会にいた頃、ウルバン神父さまは六条教会でした。

私たちは月曜日、仕事のない時に大雪山連峰や十勝岳連峰などに登りました。

ウルバン神父さまは、自分でサンドイッチを作り、私は冷凍庫に入っている餡餅を持って出かけます。昼頃になると餡餅は解けて食べごろでした。餅は疲れた身体に力となります。

 登山道に入ると、知らない人たちが挨拶を交わします。「こんにちは」とか「頑張って」とか街にはない雰囲気でした。それと信者さんには「どの季節の山が好きですか?」と聞かれます。私の答えは「どの季節も好きです。」でした。

今でも山の自然は私を癒してくれたと思っています。

春は雪が解けて土の強い匂いとか、乳香のような木の香りを吸っていると、冬の間に縮こまった身体がゴムのように伸びた気がします。

夏は太陽に照らされて登っていると突然風が吹いてきて丸ごと私を包んでくれます。秋は木の葉が黄、赤、オレンジと色づきます。木の名前はわかりませんが、ともかく美しい。自然を創造した神さまに感謝せずにいられません。

当然ですが、どんな芸術家も神さまの美的センスにはかなわないでしょうと私は信じています。

今の私は、山には登りませんが道端の小さな草や花を見ながら散歩しています。時々この小さな草や花は、主を賛美しながら私にも挨拶をしてくれているように感じます。

ウルバン神父さまとは、祈りについて、聖書やドイツから送ってきた神学などでも話し合いました。素晴しい時間でした。

今も私が思うのは、聖書の言葉で祈るのも素晴しいことと思いますが、自分の今を素直に見つめ詩編に出てくる祈りのように、神さまに話しかけた祈りも素晴らしいと思っています。